斉藤壮馬さんの「光は水のよう」という曲は、2018年に発売された
「quantum stranger」という斉藤壮馬さんの1stアルバムに入っています。
私は声優としての壮馬さんが好きで、自然と彼の音楽も聴いていたのですが、この曲は一目惚れ(一聴き惚れ)でした。
「光は水のよう」というタイトルは、ラテンアメリカの作家ガルシア=マルケスの同名小説より。
これも、今日この記事を書くにあたって調べて知ったことでした。
壮馬さんの数々の楽曲から溢れる文学的な雰囲気がすごくて、私も一応文学が好きだったのでかなり惹かれるものがありました。
「光は水のよう」の小説も読んだことないですし、壮馬さんについて深く知っているわけではないのですが(これから知っていきたいと思います)、
あえてそんなフラットな視点からこの曲の歌詞について考えてみるのも面白いかと思い、
今回は「光は水のよう」について書きたいと思います。
文学的な歌詞に絡むノスタルジックで軽快なメロディー
「光は水のよう」の歌詞が匂わせる世界観は文学的です。
それに絡むノスタルジックで軽快なメロディーが絶妙。
私は音楽に明るくありませんので、抽象的な表現になってしまいますが。
とにかくこの曲のメロディーが私の好みにドンピシャでした。
ただ切ないだけではない、かといってただ明るいだけでもなく、そのどちらも併せ持っている。
切ないし明るいノスタルジックで軽快な曲。
また、光はまるで水のようだ、というタイトルがもう、この曲が文学的だということを象徴しています。
この曲における光とは? 水とは?
この歌詞の語り手が、光が水のようだと感じる理由は?
何だか色々考えさせられます。
だけれど、すべてに意味があるわけではない。
意味のないレトリックが最高
「光は水のよう」の歌詞についても言及しているんじゃないか?という歌詞の部分があります。
その場しのぎでまかせのトリック
しがない口先のリリック 意味のないレトリックさ
レトリックとは、美しく巧みな言葉で飾って表現すること。
この部分、「リック」だけで3回も畳みかけるように続くので、こういった表現がこの曲が軽快に感じられる理由の一つだなと。
たしかに美しく巧みな表現でこの曲の歌詞は書かれていると感じます。
それも、「ゆるく」「ふらっと」に書かれているのです。
でもふらっとなダンスで
さあお次はフランスへ
ゆるいステップから上海へ
そのまま行って冥王星
この辺が、この曲の象徴だなと思います。特にサビの部分。
ゆるくふらっとな感じで、とんでもない遠いところまで行ってしまう。
同じゆるくふらっとな感じでも、それが都内だったら想定の範囲内ですが、
「フランス」だったり「上海」だったり、「冥王星」だったりする。
「上海」へ、そのまま行って「冥王星」ですよ。
この振れ幅の大きさに、魅力を感じざるを得ない。
何で、この言葉のチョイスにここまで惹かれるのかよくわかりません。
何となく感じるのは、ふらっとなスタイルのまま、日常から宇宙へ、平気で飛び越えてしまいそうなその感性に惹かれるのかなと。
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「光は水のよう」というタイトル
この曲について、斉藤壮馬公式Twitterで、壮馬さん本人が「ネオンの街で光に溺れそうな曲」とツイートされています。
元ネタ?の「光は水のよう」の小説では、「光」は太陽の光だったとネットで見ましたが(この小説普通に読みたいです)、
この曲においては光=街のネオン
ということになります。
それが斉藤壮馬さんらしさ。
ネオンの街の光に溺れる、むしろ自ら溺れにいく。
上海みたいな街の、ネオンの光という水に溺れることで、いつまでもその時間に浸っていたい。
という壮馬さんの思いが、「光は水のよう」という楽曲を完成させるに至ったのではないでしょうか。
おわりに
こういう曲は、歌詞カードも見ずに、自分自身の頭のなかだけで聴くのも楽しいです。
最初はあえて、楽曲についての情報を伏せて聴く、というのも音楽の楽しみ方の一つですね。
そのあとで、壮馬さん自身についてもっと知ってから聴けば、また新しい発見があると思います。
斉藤壮馬というアーティストの作る世界観に溺れるのは、とても楽しいです。